「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」(笑)
そんな脅威😵な表現の本の帯を目視して「何?何があったの?」と書店で想像を数秒掻き立て目にした本、宇佐見りん筆「推し、燃ゆ」
「推し」その表現はアイドルの追っかけで多数のアイドルグループの一人を好いたファンの方が表現する文体と私は認識している。
「推し」が燃えた🔥 なんて猛り立つ台詞なんだ。コレはなんだ「読んでみよう」と手に取り。
読み進めました。現代のJK?いや主人公は特殊なのか?ポップな文体で読みやすいが、「ちょとまてよ。ここ深く考えよう。」と軽快に読み進めるのを少し止めながら
主人公の内面からくる言葉に吸い寄せられるよう。自分もその場で立ち尽くし思想したり
⬇️ここからは私目線からの感想ですのでご愛嬌の目線から
ヨロシクお願い致します。
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主人公の高校生「あかり」が幼少期から抱える自分目線での不思議と感じる生き辛さを
推しメンの彼を初めて見た時から
「生き辛さ」を推しを追っかけることで
「生きがい」を感じる。
推しへの一方的な想いを遂げながら、徐々に成長する、あかり
当然、推しも歳を重ね成長。あかりの「生きがい」は徐々に推しへ心の中で問いかけることで
自分自身の環境の変化と推しの変化に戸惑いを見せるもSNSを通して同じ推し仲間への共感に触れること救われたりしながら現実に起こる成長の過程を見ないように葛藤しはじめていく。
「推し、燃ゆ」を読んで主人公が随所に若者がSNSを通して共感していく場面が多く出てくる。
私自身もTwitterやFacebookによるSNSを通して得たいのはズバリ共感(笑)
みなさんはどうですか?
イイね👍押されたりすると嬉しかったり「あ〜社交辞令的なもんだな」とか受け取り方様々でしょうか?
コロナ禍によって面前で対話する機会がめっきり減った中、社会ではPCや携帯を通しての会話が増え、リアルな喜怒哀楽を交わす事も少なくなってきたように感じます。
「推し、燃ゆ」の主人公を通してのSNSの使い方に現代の自己表現の本音と建前の際で、
それぞれ表現の葛藤があるのだと感じました。
主人公、ひかりはその独特な感性で「推し」通して自分自身を俯瞰しては見つめ
自分、他者を分析し評価することで自分の立ち位置を見つめる作業を重ねる。
その作業が濃密(笑)
表面上は「推し」に対しての恋慕的なモノが月日が経つことで「推し」へのファン活動を義務化し始める。
そこからが自己への問い
問いだだせど、問いただせど、ひかりは「自分」という人間がわからなくなり
その都度、「推し」という灯台を目印に日々を過ごす。
その様を読んで感じたことは、つくづく自分という内面は知らない内に灯台探しで
孤独を覆っているのだと感じた次第。
現代社会は携帯ひとつで、どんな世界にも飛んでいけるし
色んな人と繋がれる。そこには安易に踏み入れることが出来たり便利で
可能性を大いに広げられるツールとして認識しているし
今回、「推し」という表現する世界観を初めて感じたことは
狂喜乱舞してアイドルい歓声をあげているファンをテレビやYouTubeで群衆として呆然とみていたが、映し出される群衆から個人、個人から広がる内面にある無制限な感情からくる絶望や希望は表面のそれとは計り知れないと個人的に触れた。
冒頭で「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」は最後まで読んで
自分なりの解釈で落ち着けたが
そこは「推し、燃ゆ」を読んで自分なりの解釈を楽しんでみてください。
ではでは。。。